「前史1」から続く。


しかしながら水産業にもかげりが見え始めます。

また「ジャーナリストとして世界を広げたい」との思いもあり、開作惇は請われるまま、防長新聞社へと転職します。


河村三郎同社社長が、編集局長を担える人材を捜していたところに「適任だ」と相成りました。


1880(明治13)年創刊の、歴史ある山口県の「県紙」防長新聞

最近では、中原中也が熱心に短歌の投稿を続けていたことなどでも知られています。


同社へは、1972(昭和47)年5月に入社。

同年の10月には取締役に、1974(昭和49)年には専務に昇格しました。

河村社長は東京住まいだったため、実質的な経営はすべて任された格好でした。


しかしながら、防長新聞の実態は「火の車」。


日経新聞の人気コーナー「私の履歴書」で、、女優・有馬稲子さんが河村社長との結婚生活(1969年~1983年)を、以下のように振り返っていらっしゃいます。

「夫の会社が倒産したのは、『おりん』の稽古が始まったころだった。

人を100%信じてはいけないという経営者に必須の条件が、彼には欠けていたように思う。

山口県の出身で県の伝統ある有名な地方紙が経営不振に陥ったとき、地元の大政治家に『ふるさとの言論を絶やすな』とおだてられ、支援に巨額の資金をつぎこみ、それが会社の経営破綻のひとつの理由になった。

友情で結ばれていると思っていたその政治家に門前払いを喰わされたと男泣きに泣いていたことを覚えている。

社員の給料が払えなくなり、田園調布の私の家を抵当にお金を借りたが、その直後に会社は倒産した」
(2010年4月22日)

ここでの「夫の会社」というのは「三共開発」です。


1978(昭和53)年4月25日をもって、98年の歴史を持つ防長新聞は、その幕を下ろしました。


開作惇が関係者に向けて送ったあいさつ文を転載し、この「前史」はとじさせていただきます。


「ごあいさつ

風薫る五月も早や下旬、季節はすでに初夏を迎えようとしていますが、貴台にはお変りもなくご健勝のことと拝察しております。

さて、今回の防長新聞社の経営破綻につきましては、多くの方にご心配をかけ、また多大のご迷惑をおかけ致しましたことを心から深くお詫び申し上げます。

時間の経つのは実に早いもので、昭和49年10月、私が防長新聞社専務取締役に選任されてからすでに3年半の歳月を数えることになります。

思えば長かったようでもあり、瞬時に過ぎた一瞬の歳月だったような気も致します。

就任時、すでに4億4千万円の累積欠損金を抱えていた防長新聞社だけに、過去3年有余の経営は、文字通り“悪戦苦闘”の連続でした。

何しろ年間の総売上げが3億円前後の企業にとって、年間売上げの1・5倍近い累積赤字を抱え、そのうえなお毎月の収支で300万円から500万円近い資金が不足するという経営の現状では借入金の返済どころではなく、正常な金融措置すらとれず、経営を維持するための資金作りに追われ放し、という毎日の連続です。

この間、防長新聞の窮状を見かねた県内有力企業のご配慮で、3年間にわたり資金援助措置も講じていただきましたが、それも“焼け石に水”といった状態で、なお必要資金の絶対額が不足します。

ところが、不足する資金の手当を金融機関に求めても、社のバランスシートから全然相手にされず、止むなく毎月不足する資金は役員の一部が友人、知人の間をかけずり回って借金を重ね、それを会社の運転資金につぎ込み、何とかその月の収支のやりくりをするという危い“綱渡り経営”の連続でした。

もちろん、こうした社の現状に対し、いたずらに手をこまねいていただけではありません。

可能な限り社内合理化を進め、支出経費の節約も図って参りました。

私の専務就任当時180人を超えていた従業員を1年間で120人まで削減し人件費支出を抑える一方、本支社局経費も大幅にカット、同時に新聞社にとって基本的な収入源である広告、販売の増収を図り、さらには社外からの印刷物の受注をはじめ、事業活動の強化などによる収入増にも鋭意努力して参りました。

その結果、毎年着実に売上げは伸びてきましたが、石油ショック後の物価騰貴や人件費の大幅上昇は、売上げの伸びをさらに上回り、経営内容はいささかも好転せず、むしろ悪化の一途を辿るばかりです。

そしてこのままでは自滅しかないという状態にまで追い込まれてきました。

そこで昨年末から企業再建の青写真を画き、その実現に専念し経営の根本的改革と取り組むことにしました。

その骨子は、下関にある印刷工場を山口地区に移転、印刷方式の改革によって大幅に人員を削減、収支のバランスをとるというものです。

この計画に基づいて新工場の立地も決め、輪転機など一部の機械もすでに確保、4、5月中に合理化を終え遅くても6月以降は新工場で印刷を開始するというスケジュールで着々準備を進めてきました。

ところが“好事魔多し”というか、全く予期していなかった事態が発生しました。

それは三共開発(株)の突然の破産です。

三共開発は防長新聞のオーナー社長でもある河村三郎氏の経営する会社で、防長新聞はその三共開発からの借入残高を4億2千万円も抱えています。

この借入金は河村氏が社長であり三共開発の経営者であることにより、これまで事実上凍結同様にタナ上げされていたものです。

しかし三共開発が破産したとなると、その債務は当然表面化し、新しく借入金の返済義務が防長新聞には生じてきます。

通常の収支でさえ毎月多額の赤字が発生している防長新聞にとって、新しく動き始めた三共開発からの借入金の返済は全く不可能です。

それどころではなく三共開発の倒産はストレートに防長新聞の信用不安となってはね返り、それでなくても苦しかった資金ぐりを一層悪化させ、現状のままでは4月以降、資金不足により経営続行は不可能という状態に立ち至りました。

このため三共開発の破産後、直ちにこうした社の現状を訴え、新しく県の政財界へ経営基盤を移譲することにより経営の継続はできないものかと極力努力しましたが、何しろ長期にわたる日本経済の不況から、県内有力企業にも経営危機に直面した防長新聞を丸抱えして経営を続行するだけの余裕はなく、ついに4月25日、破産申請の手続きをとらざるを得なくなった次第です。

以上が、今回の防長新聞の経営破綻に至るまでのごく大まかな経過ですが、いずれにしましても明治13年に創刊されてから今年で98年という、長い歴史と伝統を持つ県内唯一の県民紙防長新聞がついに廃刊せざるを得なくなったことは、何としても残念でなりません。

そして非力な経営によって最後の幕を引かざるを得なくなった責任をいま一人になってしみじみと痛感しております。

約1世紀近くにわたってご支援をたまわった多くの県民読者のみなさんや、これまで公私にわたり陰に陽に直接ご協力、ご鞭撻して頂いた数多くの関係者の方々の温かいご好意に応えることができないまま廃刊してしまった私自身の非力を心からお詫び申し上げます。

直接ご拝眉のうえ、お詫びなりお礼を申し上げるべきですが、取りあえず書面にてご挨拶に代えさせて頂く次第でございます。

長い間、本当に有り難うございました。

昭和53年5月




 ↑ 1978(昭和53)年4月25日付防長新聞最終号。メーン記事は先帝祭でした



  


Posted by かいさく at 17:36Comments(0)サンデー山口物語
※サンデー山口物語(予告)はこちら


株式会社サンデー山口を立ち上げた初代社長・開作惇(まこと)のルーツは、下関にあります。


西日本を代表する水産基地・下関は、昭和30年代には活気にあふれていました。

その当時「日本水産新聞下関支局長」として、「西日本の漁業事情に通じていること、この人を置いてほかにない、といえるだろう」(1965年10月21日付朝日新聞)という存在でした。


「当時の下関水産記者クラブは国内外のニュースの発信の場として、水産業界ばかりでなく各方面から注目されていた。その中にあって、開作君は水産業界記者としてだけでなく地元人として市井の情報にもくわしく、いつもポケットに特ダネのひとつやふたつは持っているという生字引き的存在であった」と、親友でもあった福田礼輔さんは述懐していらっしゃいます。


日韓、日中問題もあり、各マスコミは下関に優秀な記者を配属。

開作は、彼らに水産のイロハから教えてあげる立場だったようです。

1963年ごろからは水産評論家として、NHK「明るい漁村」等テレビ、ラジオにも多数出演。

他紙や水産月刊誌に、解説記事を署名入りで書く機会も多々ありました。


2005(平成17)年3月に発行された「いまを伝えつづけて NHKやまぐち 1941~2004」





NHK山口放送局が、新放送会館の落成を記念して、開局からのあゆみを振り返った一冊です。

それには、大勢の“OB”が寄稿されています。


1962(昭和37)年から1966(昭和41)年まで下関放送局にいらしたアナウンサーの立子山博恒さんは、当時の関係者に話も聞き、「関門地域の放送を伝えた人々」の題で、次のように書かれています(一部を抜粋)。

「記者の山本孝は35年に東京から赴任している。

当時、下関の水産界は旺盛を極め取材範囲も非常に広く、報道各社は取材の拠点としてエース級のメンバーを送り込んでいた。

地元紙にも直木賞作家になった「みなと新聞」古川薫KRY山口放送福田礼輔らがいた。

山本はしばらく警察を廻ったあと、当時漁港に近い水産会館の中にあった水産の記者クラブへ来た。

水産記者クラブとしては農林省、水産庁以外に全国でもクラブは下関しかない。

勿論ジャーナリズムなどない時代だが、漁業から政治、国際問題とつながる西日本の水産経済に関しては右も左も分からない。

漁船だけでもトロール、底引き、巻き網、延縄、それも大きさなどによっていろいろな違いがある。

魚の匂いの充満した漁港で途方にくれそうになる。

しかし恩人が現れる。

水産新聞の開作惇である。

大日本水産会新聞部の記者だった開作は、水産業に関しての膨大な知識と人脈、経験それに鋭い筆致をもちながらそれを抱え込むことなく、多くの報道陣に暖かい眼差しと支援を送って来た。

開作には『業界紙は突っこんだ漁業問題の解説や問題提起に徹して、華やかな社会面は一般紙や報道にゆだねる』という信念があったのだ。



NHKの『明るい漁村』のコメンテーターとしてもしばしば画面に登場した。

木戸(木戸浩志アナ)や立子山らも番組面で多くの事を教えてもらった。

海兵最後の期で終戦を迎えた開作は、平成6年に亡くなったが、山本は開作夫人へのお悔やみ状の中で『水産業界事情をイロハから懇切丁寧に教えていただきました。先輩のあとにくっつきながら漁港や水産会社をまわり、取材のヒントもいただきました。』と哀切の意をこめて綴っている。

山本はこの下関でじっくりと水産を含めたジャーナリストとしての土台を固める。

開作からのヒントのひとつに河豚毒の解明をした水産大学校を取材して原稿を書いた想い出がある。

これが全中の特ダネになった。

かつて下関通信部にいた報道の勝部領樹も新人時代に手ほどきを受けた一人だ。

(中略)

その後東京報道に戻った山本は平成15年現在も解説委員として『日曜討論』で見事な司会を続けている」



「前史2」に続く…。

  


Posted by かいさく at 13:05Comments(2)サンデー山口物語
弊社の発行する「サンデー山口」(山口版)は、山口県内でもっとも古い、1978年創刊のフリーペーパーです。

現在、山口市全域が配布対象の「山口版」と、防府市でお配りしている「防府版」の2版を発行しています。


さて、山口県内を見渡すと「サンデー◯◯」と名の付く情報紙があふれてます
よく「御社の発行ですか?」と聞かれるのですが、「違います」
弊社が「元祖」であることだけは間違いないのですが…。

「これでは混乱してしまう」とのお叱りの声も、よくいただきます。


このままでは業界にとっても決してプラスにはならないので、「株式会社サンデー山口」および「地域情報紙サンデー山口」の生い立ちから現在までを、「サンデー山口物語」として、不定期連載していこうと思います。

上記のような疑問も、解決できるのではないでしょうか。





下の写真2枚は、1978年8月6日(配布は4日?)に発行した、サンデー山口創刊準備号








「前史1」に続く…。



  


Posted by かいさく at 19:32Comments(0)サンデー山口物語