※サンデー山口物語(予告)はこちら


株式会社サンデー山口を立ち上げた初代社長・開作惇(まこと)のルーツは、下関にあります。


西日本を代表する水産基地・下関は、昭和30年代には活気にあふれていました。

その当時「日本水産新聞下関支局長」として、「西日本の漁業事情に通じていること、この人を置いてほかにない、といえるだろう」(1965年10月21日付朝日新聞)という存在でした。


「当時の下関水産記者クラブは国内外のニュースの発信の場として、水産業界ばかりでなく各方面から注目されていた。その中にあって、開作君は水産業界記者としてだけでなく地元人として市井の情報にもくわしく、いつもポケットに特ダネのひとつやふたつは持っているという生字引き的存在であった」と、親友でもあった福田礼輔さんは述懐していらっしゃいます。


日韓、日中問題もあり、各マスコミは下関に優秀な記者を配属。

開作は、彼らに水産のイロハから教えてあげる立場だったようです。

1963年ごろからは水産評論家として、NHK「明るい漁村」等テレビ、ラジオにも多数出演。

他紙や水産月刊誌に、解説記事を署名入りで書く機会も多々ありました。


2005(平成17)年3月に発行された「いまを伝えつづけて NHKやまぐち 1941~2004」





NHK山口放送局が、新放送会館の落成を記念して、開局からのあゆみを振り返った一冊です。

それには、大勢の“OB”が寄稿されています。


1962(昭和37)年から1966(昭和41)年まで下関放送局にいらしたアナウンサーの立子山博恒さんは、当時の関係者に話も聞き、「関門地域の放送を伝えた人々」の題で、次のように書かれています(一部を抜粋)。

「記者の山本孝は35年に東京から赴任している。

当時、下関の水産界は旺盛を極め取材範囲も非常に広く、報道各社は取材の拠点としてエース級のメンバーを送り込んでいた。

地元紙にも直木賞作家になった「みなと新聞」古川薫KRY山口放送福田礼輔らがいた。

山本はしばらく警察を廻ったあと、当時漁港に近い水産会館の中にあった水産の記者クラブへ来た。

水産記者クラブとしては農林省、水産庁以外に全国でもクラブは下関しかない。

勿論ジャーナリズムなどない時代だが、漁業から政治、国際問題とつながる西日本の水産経済に関しては右も左も分からない。

漁船だけでもトロール、底引き、巻き網、延縄、それも大きさなどによっていろいろな違いがある。

魚の匂いの充満した漁港で途方にくれそうになる。

しかし恩人が現れる。

水産新聞の開作惇である。

大日本水産会新聞部の記者だった開作は、水産業に関しての膨大な知識と人脈、経験それに鋭い筆致をもちながらそれを抱え込むことなく、多くの報道陣に暖かい眼差しと支援を送って来た。

開作には『業界紙は突っこんだ漁業問題の解説や問題提起に徹して、華やかな社会面は一般紙や報道にゆだねる』という信念があったのだ。



NHKの『明るい漁村』のコメンテーターとしてもしばしば画面に登場した。

木戸(木戸浩志アナ)や立子山らも番組面で多くの事を教えてもらった。

海兵最後の期で終戦を迎えた開作は、平成6年に亡くなったが、山本は開作夫人へのお悔やみ状の中で『水産業界事情をイロハから懇切丁寧に教えていただきました。先輩のあとにくっつきながら漁港や水産会社をまわり、取材のヒントもいただきました。』と哀切の意をこめて綴っている。

山本はこの下関でじっくりと水産を含めたジャーナリストとしての土台を固める。

開作からのヒントのひとつに河豚毒の解明をした水産大学校を取材して原稿を書いた想い出がある。

これが全中の特ダネになった。

かつて下関通信部にいた報道の勝部領樹も新人時代に手ほどきを受けた一人だ。

(中略)

その後東京報道に戻った山本は平成15年現在も解説委員として『日曜討論』で見事な司会を続けている」



「前史2」に続く…。

  


Posted by かいさく at 13:05Comments(2)サンデー山口物語